昔話に付き合ってよ#1

こにちは~お久し振りです。Haruです。

投稿まで少し期間が空いてしまいました。

何か書こうかな~って悩みすぎて何書いたらいいのか分かんなくなって筆進まなかったので、色々考えたんですが何か残さなきゃ!!って力まず、最初始めた切っ掛け通り大好きな自分語りと振り返った時にこんなことあったなぁって思い出せるように書いていこうかなと。

なんだか人が読むかもしれないぞ!!と気合を入れすぎましたw

ここはクソデカ独り言ブログ!そんな気持ちでいきますw


身体よわよわから始まる人生!

今回は本当にただの思い出話。

Haruの最初の最初から語っていこうかな。

Haruの身体よわよわは4歳の頃から始まりました。

4歳で心臓僧帽弁膜症と偏頭痛持ちということが分かった。

母の話によれば元々泣くことがあったから4歳より前から偏頭痛持ちで、言葉や意思を表現できるようになったから4歳で分かったんじゃないかって。

弁膜症だったけど幸い運動はみんなと同じようにしていいって許可は貰ってた。

体を動かすことが好きだったし得意だった。

でもすぐ息が上がるし運動した後は度々熱が上がってた。

自分は体力無いだけって思ってたけど実際どうなんだろうなんて今更思う。


一人ぼっちのお世話係と不登校

幼稚園に入って隣の地区の知的障がいの子と一緒のバスで通った。

一般の幼稚園。

私は何故かその子のお世話係で、その子が暴れると止めるのは先生じゃなくて私だった。

小学校も同じ小学校に入って2年生になるまで一緒だったので、幼稚園から小学2年生までの間私はずっとその子中心で学校生活を送ってた。

私が幼稚園通い始めた時からその子は何故か私の隣にいて、私がしたいことは全部後回しで、その子が何かしでかすと怒られるのは私だった。

小学2年生までそれが普通だったから私は当たり前だと思ってたけど、後から親や大人になってからできた友人たちに話したらおかしいって言われた。

友人によれば「うちにも知的の子通ってたけどみんなでお世話してたし一人だけの負担になるってことはなかったよ…。」とのこと。

そりゃおかしいよねって今は笑っちゃう。

クラスの誰も手伝ってくれなかった。

やりたい係があってもその子ができる係に合わせなきゃだったし、日直は全部一人でやった。

昼休みも放課後もその子のお世話をした。

体動かすこと好きだったから私だって外でかけっこしたかったし、放課後だって遊んで帰りたかった。

知的のその子が2年生の3学期に特別支援学校に転校することになった。

私は2年生の3学期から不登校になった。

遊び方が分からなかった。

人の誘い方が分からなかった。

というのも、ずっとその子のお世話係だった私はその子と組まれるのが普通だったから、クラスの他の子と2人組を組んだり自由に班を作ったり声をかけて一緒に遊んだりする方法を知らなかった。

急に大勢の知らない人たちの中に放り込まれたみたいで怖かった。

私は学校や集団、周りと比べて自分の行動が合ってるのか自信がなく、自分も彼女の様に不審な行動をとってしまっているんじゃないかって人の目が怖くなった。

不登校になっても誰も助けてくれなかったし、小学3年生の時の私のクラスは学級崩壊してたから尚更教室に行くのが怖かった。

毎日頭痛と吐き気と恐怖で泣きながら学校に行ったり帰ったりを繰り返してた。

4年になって担任の先生がおじちゃん先生に代わってクラスがまとまり始めて、私も体調崩しながらいっぱい休みながらも4~6年の間は通いきった。

(6年の時、写真が趣味のおじちゃん先生がやたら肩組んで顔近づけて写真撮ってきたり、水泳の時女子生徒に腕を上げて写真に写るように強制してきたり、冬場女の子たちがお腹冷やしちゃいけない時に長袖長ズボンのジャージを着ると不機嫌になったりしてて今思えばどれも気持ち悪かったなぁ…なんて思ったりする。)


そ~んな感じのどんより暗い幼稚園小学校時代で~した!!

果たしてHaruの中学高校時代はどうなっちゃうのか!?

次回「暗黒の中学高校時代!」

今回はなんだか愚痴っぽくなっちゃいましたね…

ではでは今回はこの辺で~!

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